積読ですよ!真塚さん

なにもわからない。

「週刊クレヨン王国」その2『クレヨン王国の花ウサギ』


講談社青い鳥文庫20-2
クレヨン王国の花ウサギ』著:福永令三、絵: 三木由記子、解説:宮崎芳彦

ちほは、たった十さいの少女にすぎませんが、いま、人間のぜんぶの歴史をしょった代表として、この森にたいしているのでした。

 

【概要】
1982年 青い鳥文庫 第1刷
1986年 児童文学創作シリーズとしてハードカバ ー版
2012年 新装版(絵:椎名優
2013年 kindle
(最初の単行本は未確認。)
(1985年に西川おさむ装画による講談社文庫版が 出ているようだが、こちらも未確認)

青い鳥文庫での通し番号としては20-2となってい るけど、本作はクレヨン王国シリーズの第3作に あたる。実際の2作めは20-4『クレヨン王国のパトロール 隊長』で、刊行順と文庫収録順がなぜか前後して いる。

 

【もくじ】
ちほとロペ
大じけん
日向山
ゆめのけしき
あくまのサメ
クレヨン王国
大会議
ヒキガエル校長
めぐりあい
水底の国
キリマンの森へ
川原のこんらん
白鼻のカモシカ
池の戦い


さて今回もだらだらと「クレヨン王国」の感想を話していきます。

今回のクレヨン王国つらいポイントは3つ。

①メインストーリー

②ワニエモン

③動物になったみんな

 

『花ウサギ』は、人間の開発による自然破壊が事件の発端となります。
主人公は小学4年生の女の子ちほとウサギのロペ 。

 

「あれ、シルバー王妃は?」という人もいると思います。
『十二か月』の主人公だったユカとシルバー王妃は、この話には出てきません。
というか、クレヨン王国シリーズを通してシルバー王妃が出てこない話のほうが多い。

 

Wikipedia記事にもありますが、

ja.wikipedia.org
クレヨン王国シリーズのストーリーには何種類か あって、

①「クレヨン王国に一般の少年少女が関わって成 長していく」
②「クレヨン王国の住人達が様々な冒険に巻き込 まれる」
③「寓話や童話が綴られる短編集」

初めのうちは①のパターン、次第に②のパターン が増えていく。①は一作ごとに登場人物がまった く違うことが多いが、シリーズ後半になると、①パターンでも②でお馴染みのクレヨン王国住民が出てくる、というハイブリッドが出てくる。③の 短編集はあまり多くない。


【あらすじ】
遠足にいった五年生の何人かと、校長先生がいなくなってしまった。そのなかには、ちほのお兄ちゃんもいる。
ちほはお兄ちゃんになついていたウサギのロペをつれて捜索にくわわるが、ロペが急に走り出し、 追いかけるうち、ちほはクレヨン王国に迷い込んでしまう。
実はロペは花ウサギという特別の存在で、今回の 事件は、浜辺の開発工事のためにうっかり封印が解けてしまった悪魔アオザメオニが校長先生たちを動物や虫に変えてしまったのだ、と教えてくれた。そしてアオザメオニを倒せるのは花ウサギだけ。
ちほ逹は、お兄ちゃんを助けるためアオザメオニを倒そうと決意する……。

 

これがメインストーリー。
典型的な魔王打倒物語、なんですが………どうもその、取り出せば単純な構造につめこまれたディテールが、挿し込まれるサブストーリーが、ひたすら重い。


①メインストーリー


とりあえず、まずはメインストーリーの詳細から行きましょう。


アオザメオニを倒す決意を胸にクレヨン王国の中央へ向かうちほとロペですが、クレヨン大臣たちの会議はまさにそのこと、アオザメオニを倒すべきかどうかで真っ二つに割れています。

なんで?
封印が解けた悪魔は、倒すか、また封印するかしかないのでは?

アオザメオニから
「地球の自然破壊をする人間は許せんので復讐するだけ。クレヨン王国には手は出さな
という手紙が届いたのです。

これを受け入れるかどうかで意見が分かれているのです。
「確かに人間の自然破壊はひどいし少し懲らしめられるべき派」と
「いやいや人間は素晴らしいし可哀想だよ派」です。
どっちにしてもクレヨン王国には手は出さないって言ってるし……。

なんとクレヨン王国の大臣会議は、人間を見捨てるほうに傾いているのです!
ちほはお兄ちゃんを助けようと決意してきたというのに!


構図は「ひどい悪魔からかわいそうな子どもたちを助ける」から、「ひどい悪魔と、もっとひどいかもしれない人間」という構図にうつっています。子どもたちが助けられるか否かはこれまでに人類の行ってきた事績によってはかられ、その判断は大臣たちによって政治的に決定されるのです。

えぇー……いや、悪魔を倒しに行きませんか。

なんとか、アオザメオニ捕獲のために軍隊が派遣されることが決まりました。
ロペはその最高司令官に任命され、一個中隊を率いることが認められます。
クレヨン王国陸軍第五師団第五連隊に属する第十九練兵場で最新式KO新型水陸両用戦車の操縦法 を習い、モンシロチョウ中隊3万3千人を受け取ると、さあ出発です。

………???????

陸軍?中隊?戦車??

これですよ。
クレヨン王国にはなぜか軍隊のでてくるエピソードが多く、しかも凝っている。福永先生が昭和3年生れであることも無関係ではないと思います。相手は悪魔なんだし、なんか魔法的なファンタジーな力で戦うんじゃないのかよと思わないでもな
いですが、クレヨン王国は軍隊で物事を解決しようという傾向にあります。


とにもかくにも、戦車と兵隊をうけとってちほとロペは進軍します。
このモンシロチョウ部隊、受け取った時点ではまだ卵。
アオザメオニ捕獲には花ウサギたちの力が必要で(ロペも花ウサギの子孫ですが力は失っています)、彼らがいるといわれる伝説のヤマボウシを探さね
ばならないのですが、ヤマボウシがある場所までは二ヶ月かかるらしく、
いま成虫の兵士を連れて行くとその頃には弱っているだろう、というわけで卵をもらうのです。
行軍の道々で兵士としての教育をしていけ、ということす。

で、卵から孵り、途中途中で文字通り「道草を食い」ながら青虫新兵たちは成長します。ところが急に元気がなくなり、じっと動かなくなってしまいます。ロペたちが悪い草でも食べたのかなと心配していると……

青虫たちの身体を食い破って出てくる寄生ハチの嵐!!!

えぐい!!!!!

部隊は大幅に戦力ダウンです。
っていうか目の前で青虫の身体食い破って出てくるハチの説明や描写が怖いです。

さらに困難を極めるのが、真っ二つに分かれたクレヨン大臣たちのことです。茶色の大臣や水色の大臣は、人間の自然破壊に怒っていて、助けることに反対していたため、
彼らに管轄下にある土や木や水や空は、ちほたちの味方をしてくれません。呼びかけてもだんまりです。
ちほは最新式戦車が木や草花たちをぎゃりぎゃり轢き潰してきたことに気づき、これでは協力してくれるわけがないと悟ります。
戦車を降りるのはいいけど、歩いて行っては時間がかかりすぎる。

 

ちほは、うなだれてしまいました。森の声は、ただのいじわるとはちがっていました。
そこには、あきらかな意志が語られていました。しかも、かれらが正しいのでした。ちほは、それをかんじました。はじめて、ちほは、自分が対面しているものが、どんなぬきさしのならない大きな重いもんだいかを、はっきりさとりました。
 ちほは、たった十さいの少女にすぎませんが、いま、人間のぜんぶの歴史をしょった代表として、この森にたいしているのでした。ちほは、ただおにいちゃんをかえしてほしいと、その一心だけでここまできたのでしたが、おにいちゃんがあんなに生きものをかわいがる子どもだったことも、自分なりにまちがったことはしないつもりで生きてきたことも、そんなことは、もんだいではないのでした。ちほは人間で、森は人間をきらっているのでした。

 

自然と人間の対立構造をこれでもかと突きつけられるわけです。
もうちほにはどうしようもなくない???
ちほはお兄ちゃんを助けたいだけなのに。


色々あって動物たちの力を借り、ヤマボウシのある場所までなんとかたどりつきます。
そこへ花ウサギを警戒してやってきたアオザメオニも現れ、いよいよ最終決戦です。
ここでも生き残っているモンシロチョウ部隊をほとんど全部オトリに使って犠牲にするなど、まあ、いろいろあるのですが、花ウサギの力でアオザメオニを再び封印することに成功します。
めでたしめでたし。


以上が、ちほとロペを中心としたストーリーです。


魔王打倒のストーリーに、人間の開発という名の自然破壊を批判するテーマを前面に推した物語です。

いや、あの、なぁ。
冒険の旅に困難はつきものだとは思いますが、困難のことごとくが敵であるアオザメオニによるものではなく、味方の側からなんですが……
・大臣会議で揉め
・青虫部隊は寄生ハチにやられ
・森や大地は人間の味方をしてくれず
まあ大臣会議にかんしては、アオザメオニによる揺さぶりではありますが……

クレヨン王国に行く以前の場面でも、
・最初は開発反対派が多かったが、浜を埋め立てた土地に小学校と新築すると聞くと、反対運動も尻すぼみになる
・学校の討論会では議員の息子が人間中心論をとても説得的に弁じて、自然擁護派のちほのお兄ちゃんと対立する
・浜辺がなくなって一番困るはずの漁師や漁協は、たんまり補償金がもらえるのでむしろいちばん乗り気
などの、なんともいえないエピソードが挿入されています。
殊に一番最後のものは、

「もう、海がくさってきたでな、ゆうべのばけもんみたいなものもでてくるて。」
ちほは、なんだかかなしくなりました。このきれいな海が、くさっているというのです。くさっているのは海ではなく、漁師たちのほうではないでしょうか。

と手厳しい。くさっているのは海ではなく、漁師たちのほうではないでしょうか…。

 

とはいえ、『花ウサギ』においてちほとロペの冒険はストーリー上の主筋にすぎません。
もちろん自然と人間のテーマは大事ですが、本作をさらに重くしているのが、冒険の合間に挿まれるふたつの挿話、すなわち数百年前アオザメオニを封印した伝説の陶芸師ワニエモンと、動物にかえられてしまったみんなのエピソード……


②ワニエモン

ワニエモンの逸話は、章でいうと「ゆめのけしき」にあたります。

かれは陶芸の名人で、良い土や薪がとれるキリマンフジという山の東の谷で動物たちと仲良く暮らしながら壺や器を作っていました。
そこにある日アオザメオニがやってきます。アオザメオニは動物たちに意地悪をして楽しみ、谷からはどんどん動物が逃げていきます。
ワニエモンの元にも、アオザメオニは現れます。蝿に変身してワニエモンの作る壺のなかに入り込み、内側から割ってしまうのです。やることの小っちぇえ悪魔です。
悪魔の力を抑えこめるほど美しい壺ならば封じられるのですが、なかなか上手くいきません。ワニエモンは超落ち込みます。

そんな折り、ミミズクが来て言いました。
「子どもがアオザメオニに耳を取られてフクロウにされてしまった。生きていく気力もない。そろそろわたしたちもこの土地を捨てようと思う」
ワニエモンは言います。
「わたしの耳をもっていきなさい。わたしの仕事に耳はいらない」
あるとき左目を矢で射られたカモが来ます。
「もともと右目が見えないのに、両方見えなくなってしまった」
ワニエモンは言います。
「きみが一つも持っていなくて、わたしがふたつ持っているなら、ひとつあげるのが友だちというもんだ」
あるとき腹を空かしたオオカミがきます。
「住んでいた動物たちがいなくなって餌がとれない。何か食うものをくれ」
「食べるものはない。わたしの左腕を食べなさい 。」

この時点でワニエモンは片目片腕です。
かなり鬱だし、死にたさが上がってきています。
もう死んでしまおうかと池に来たところに、クマが現れます。
「クマさん、わたしを食べて下さい」
「そのつもりで来たけどお前汚い格好だから嫌」

ワニエモンがいままでにあったことを話すと、クマはお前いい奴だなと泣き始め、もう一度池で自分の姿を見るといいと言って去ります。
そこで池に映ったのがヤマボウシ
このヤマボウシの美しい図柄を使うことでアオザメオニを封印することができたわけですが……いやもう壺とかどうでもいいよ!

生身でやるリアル「幸福の王子」は想像するだけでえぐいし、オオカミはワニエモンの腕食べたのか。マジで食べたのか。

この壺が、本作冒頭での
「浜辺の開発工事でアオザメオニの封印が解ける」
につながってくるわけですが、それまでにはもう一エピソード経なければなりません。

ワニエモンの壺(アオザメオニ封印済)は、あまりの美しさに国宝になり代々受け継がれます。
ところが癇癪持ちのゴールデン王様(『十二か月』のもっとずっと前の代のひと)がお追従ばかりの貴族にブチギレ、床に叩きつけて割ってしまいます。ワニエモンさん浮かばれない。

壺が割れたことでアオザメオニが復活してしまい、このとき力を借りたのが花ウサギ。花ウサギの力でなんとか事なきを得る。

このときアオザメオニが二度と目覚めないように海底に沈めることになったけれど、
それが人間の開発のためにまた封印が解けてしまった――というわけでようやく『花ウサギ』の冒頭につながるというわけです。

この挿話はロペからちほに説明されたものであるものの、まだ事態が何も飲み込めていないちほは、目前のアオザメオニと花ウサギのことしか聞き返しておらず、ワニエモンや王様についてはその後作中で触れられることは一切ない。

 

③動物になったみんな


その後が触れられないというと、動物になった子どもたちと校長先生も。
彼らには「ヒキガエル校長」や「川原のこんらん」で何度かスポットが当たる。
ヒキガエルとなった校長先生は、カエルの仲間たちを連れて産卵場所を目指して行進するが、以前はなかった、新しく開通したスカイライン(自動車道)を横切ろうとして、仲間が何匹もつぶされる。昨年まで産卵場所だった水たまりは干上がり、新しく見つけたところは洗剤まみれの汚水、その次は用水路で、すでに腹から卵をはみださせ
てひきずってるメスさえ、卵が流されることを恐れる。これだけでけっこう悲惨。
それでもなんとか水たまりを見つけると、ああやっぱりカエルでよかった、生れるならまたカエルが良い、と思うのでした……。


いやいやいやいや。
もう意識が完全にカエルになっちゃってますよ!
生れるならまたカエルが良いじゃなくて!もともとカエルに生まれてないから!しっかりして校長先生!

子どもたちのほうも、テントウムシやバッタやカワセミになりますが、人間のときは引っ込み思案だったり周りの目を気にしたりしてたけど、動物や虫になってから性格が変わった、明るくなった、磊落になった、楽しい、みたいに描かれており、そういえば校長は?という話題が出た時も
「もうじゅうぶん世の中のためにお尽くしになったんだから、どうなってもいいんじゃない?」
とかなりシニカルなセリフで笑いあいます。
この会話が、命かけてるカエル校長の次の章で展開されるんだからたまりません。
ちほのお兄ちゃんだけは、フナになっても人間の時の心を保って、ロペのことをずっと気にかけたり、他の動物や虫を助けてやったりして、その優しさが巡り巡ってちほたちを助ける動物たちにつながります。

ところで、動物はいいもんだワッハッハになってしまった校長や彼らも、おはなしの最後でアオザメオニが封印されたことで、人間に戻ったはずです。はず、というのは、明確に描写されず、封印したということはお兄ちゃんは人間に戻ったんだとい
うことがなんとなくちほにはわかった、と書かれる程度で終わるからですが。

校長先生や他の子どもたちも人間に戻っているはずだけど、そのとき彼らの意識はどうなるのだろう、と考えるとちょっとこわいものがあります。
単純に、やっぱり自然は大切だと擁護派になるでしょうか?
でも、なんとなく、動物のときの解放感や充実感から人間に戻ってきてしまうと、喪失感で立ち直れないんじゃないか、という気もします。
………っていうか被害にあったお前ら(とお兄ちゃん)を助けようとしてるのに、そのお前らがワッハッハしてたらお話の動機の部分が揺らいできちゃうだろ!とヒヤヒヤもします。

これは自然・動植物=善い、人間=悪いという単純な構図の強調ゆえの〈歪み〉なのか、それとも動植物になってさえ自儘な心になっているようではいけない、という素直な主張なのか。でも動物・虫になって感じる解放感や充実感は、はっきり良いもののように描かれていると思うし
………うーむ。

 

こうして今回十数年ぶりに読み返してみて、スレたオトナになってしまうと、いくら自然の描写が美しくてもそれだけで自然ってイイネとは必ずしもならないし、
こうしてだらだら感想をかきながら、つらいつらいと言い出してしまう、イカンなあとは思いつつ …でも、このつらさがまた楽しかったりするので……。
まだまだ残り50冊。つづけていこうと思います。

 

 

 

 こちらは新装版