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なにもわからない。

「週刊クレヨン王国」その3『クレヨン王国いちご村』

週刊クレヨン王国 その3『クレヨン王国いちご村』Add Star
講談社青い鳥文庫20-3
クレヨン王国いちご村』著:福永令三、絵:三木由記子、解説:宮崎芳彦   

クレヨン王国いちご村 (講談社青い鳥文庫)

クレヨン王国いちご村 (講談社青い鳥文庫)

 

「ブタは、つらいよ。ブタの心は、ふくざつだよ。いちばんすきな人が、いちばんこわい人なのだ。育ててくれた人が、ころそうとする人なんだ。そんな世界、にげだすよりほかに、どうしようがある? あんたが、ブタなら、どうする?ぼっちゃん。」

 

【概要】
1983年 第1刷
1986年 児童文学創作シリーズとしてハードカバー版
2013年 新装版(絵:椎名優)、Kindle

クレヨン王国」シリーズ初の青い鳥文庫書き下ろし作品にして、初の短編集。

 

【もくじ】

はじめに
レールの中のスミレ
バスにのったクマ
ヘチマの主人
北風フーと青空スー
ブタ別荘
おかしな修学旅行
ラッパふきのエンゼル
野原のひっこし
ドングリのかくれんぼ
花びらの旅
水色の自転車
いちご村
あとがき
解説

 


懲りずにクレヨン王国の感想をだらだらします。

本作は短編集となっていて、12の独立した物語を、「はじめに」「あとがき」で挟んである。(「はじめに」「あとがき」は著者からの序文・跋文ではなく、あくまでおはなしの一部です)

12のおはなしは、12色のクレヨンが語る物語。

それを「はじめに」と「あとがき」に登場する、盲腸で入院している少年が、おばあちゃんが差し入れてくれた12色クレヨンたちが話しているのを夢の中で聴く、という体裁をとっている。


クレヨン王国をつらいつらいとうるさいこの企画ですが、本作はこの時点でもうちょっとつらいです。
入院したけど他の家族は旅行に行っているため、お見舞いにはお祖母ちゃんしか来ない。
お祖母ちゃんは12色のクレヨンを差し入れに持ってきて、お母さんが入院したときはクレヨンがお話してくれたんだって、と教えてくれる。
それを聞いて少年、「おばあちゃんはお母さんのときと同じにしたいんだな」と察し。
その場では特に何も云わずに受け取ったけれど、夜、ほんとうに夢の中にクレヨンたちが現れて……という寸法。

いや、あの、なぁ。
「おばあちゃんの話を信じてワクワクした」でも、「そんなことあるもんか、と信じなかった」でも、いいじゃん。むしろそのほうがわかりやすい。
どーして「ああ、お母さんのときと同じにしたいんだな(察し)」なんだよ!

 

さて、個々の話を見ていきましょう。

エピソードによってあからさまにコメント量ちがいますが、ご了承のほどを。

 

【レールの中のスミレ】 むらさきクレヨンの話

主な登場人物は、線路の下敷きにされているガレ石のおじさんたちと、その真ん中に咲く幼いスミレの花。
ガレ石であるおっさんたちは、彼らの真ん中に一輪だけ咲いた小さなスミレを可愛がって心の慰みにしていた。
スミレも背が低いため線路の外は見えず、その小さな世界で満足していた。
ところが、ある日やってきた蝶が
「向こうの河原には他にもスミレが咲いているのにこんなところで一輪で可愛そうだね」
などというものだから、スミレは外の世界が気になって仕方がない。
石ころのおっさんたちにしてみればまさに「悪い虫がついた」といったところ。
可愛いスミレの願いは叶えてやりたいが、唯一の心の慰めを手放したくない、どこにも行ってほしくない、とも願う。
………………………………………………
これゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』じゃねーのか、と思わなくもない。
最終的にめでたしで終わるところは青い鳥文庫の世界ですが、石のおじさんたちはスミレを外の世界に連れ出す計画を立てながらも、心の底ではスミレがやっぱり行かないって言わないかなぁとか、計画が失敗しないかなぁとか考えてる。人間そういうところあるよね(人間じゃないけど)。

最終的にめでたしで終わるところは青い鳥文庫の世界ですがでもトップバッターにこんな話を持ってきたのはなんでだ?
そもそもガレ石のおじさんたちの「岩場で割られて運ばれてきたから皆病んでいる」って設定がつらい。


【バスにのったクマ】 黒クレヨンの話

山奥の路線バスの運転手のおっちゃんがクマの親子と仲良くなって一緒に遊ぶという、
それだけの話なのだけど、その路線バスに他に客がいないことの理由づけに
「新トンネル開通に当て込んで出来た路線だが、トンネルがまたぐ県境のあちらとこちらで合意がとれず、工事自体が頓挫したため結局何処にも通じず山の上に行って帰るだけで乗客もほとんどいない」
なんて設定、いりましたか!いりましたか!?………つらみ。
恐らくは、福永先生のお住まいの地域にモデルがあるのでしょうけれども。


【ヘチマの主人】みどりクレヨンの話

面長なのを気にしている少年が主人公。
細長いといわれるのはまだマシだが、長細いといわれるのはイヤだ。長いほうが主みたいだからだ。
そんな彼が、スイカの種かと思って育てはじめたのがヘチマだった。
初めはヘチマなんて嫌だと思っていたけど、ヘチマに話しかけられおしゃべりをするうち、どんどん好きになっていく。
次第に自分の面長も受け入れてゆく。
いい話。
………………………………………………
ところで話の筋とは関係ないのだけど、ぼくはこの話を「細長いと長細いのちがいにこだわる男の子の話」として覚えていて、
ヘチマのほうは忘れていたくらい。
言葉にこだわりのある子供というのがどうやらぼくは好きらしく、そういえばリンドグレーンの「名探偵カッレくん」でも、
冒頭でカッレくんが「疑問の余地なし」という言葉を気に入ってるシーンがあった(「血液!疑問の余地なし!」でしたっけ?うろおぼえ)し、
いつ何処で読んだかはさっぱり覚えていないけれど、全国小学生ナントカ作文傑作選みたいなもので、「いたしかたない」という言葉を覚えたばかりの女の子が、
隣の部屋での両親の夫婦喧嘩を聞きながら蒲団のなかで丸まって「いたしかたない」と唱える、というのが印象に残っている。


【北風フーと青空スー】 青色クレヨンの話

跳ねっ返りで居場所のなかった風の少年が、青空の女の子と出会って、ちょっと危険に立ち向かって、大人に認められる話。
これ一本で長編になってもいいくらいの良いボーイ・ミーツ・ガール冒険もの。


【ブタ別荘】 はだ色クレヨンの話

さて重い話がきますよ。
………………………………………………
宏くんはおじいちゃんの使っていない別荘を借りようと山奥に入っていくが、
たどり着いた別荘はブタたちの民宿になっていた。
ここにいるのは、食肉として卸されるのが嫌で小屋やトラックから逃げ出してきたブタたち。
ホテルの支配人(支配豚?)は麓の五作じいさんに飼われていたという。
ブタたちは言う、

「ところで、みんなを代表して、一つあなたに聞きたい。いったいわしらは、あんたの食料ですか?えさですか?それだけのもんかな?さあ、ぼっちゃん、こたえなさい。」

「さ、いってみなさいおまえたちは、ただのえさだ、と。ね、そうなんでしょう。」

「人間はふしぎな動物だね。あんなにかわいがっていたのに、お金のためにへいきで売ってしまう。売ればころされることはわかっているのに。人間はなによりお金がすきだ。長いあいだ、わたしは人間がどうやってお金を食べるのか、わからなかった。」

支配ブタの玉光は、自分を世話してくれた五作じいさんに感謝しながらも、

「ああ、恩返しがしたい。じいさんのやくにたつことならなんでもしてあげようってちかったもんだ。けれど、やっぱり、死にたくはないからなあ。おれはじいさんの手にかみついてにげてきたんだ。あの手によう。」

「ブタは、つらいよ。ブタの心は、ふくざつだよ。いちばんすきな人が、いちばんこわい人なのだ。育ててくれた人が、ころそうとする人なんだ。そんな世界、にげだすよりほかに、どうしようがある?あんたが、ブタなら、どうする?ぼっちゃん。」

それで玉光は死にたくなくて逃げ出したけれど、逃げたのは悪かったと思ってる。五作じいさんに損をさせた。
だからこうして民宿でお金を稼いで、自分を売って稼げたはずの分をおじいさんに渡そうと決めた。つまり自分を買おうと考えたのだ。
その話を聞いて、宏くんも涙ぐんでしまい、そのまま民宿に泊まることになってしまった。
宏くんは玉光の気持ちに感動し、ぜひ五作じいさんに伝えなくちゃ、と思う。麓まで戻って、今あったことを説明した。
五作じいさんも玉光のことを覚えていて、走って別荘に向かう。
けれど、もはや別荘のなかには誰もおらず、ブタの民宿だった跡のない。
追手を恐れてあわてて逃げたのだ。
………………………………………………
なにこれちょっともー。

「いちばんすきな人が、いちばんこわい人なのだ。育ててくれた人が、ころそうとする人なんだ」

珠玉の名文句ですよ。

動物が人間を糾弾するという構図は児童書でもしばしばある。たとえばぼくの印象に強いのは、和製ドリトル先生である『ぽっぺん先生』シリーズで動物に裁判にかけられるシーンだ。動物たちがぽっぺん先生を人間代表として、動物を大量に殺している罪で糾弾する。ぽっぺん先生は人間以外の動物だって他の動物を殺すじゃないかと抗弁するけど、人間は殺すために家畜を育てるし、食べるためでも生きるためでもないのに狩りをするから他の動物とは違う、と反論は退けられる。

本作のすごいところは、ブタのほうは必ずしも人間を憎んでいるわけではないというところだ。自分たちは家畜、奴隷に貶められていると憤っているだけじゃない。

他のブタたちはそうかもしれないけど、少なくとも支配ブタの玉光は育ててくれた五作じいさんに感謝しているし、好いてもいる。でも、殺されたくはない。福永先生が意図したとは思えないけど、児童虐待を連想するといってもそこまで飛躍はしていないだろう。

砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の「好きって絶望だよね」という言葉も彷彿とさせるが、そこまで諦観してはいない。自分が生きることまでは諦めてはいない。とはいえ命の危険から逃れたからと終わりにするではなく、きちんと清算をしようとしている。自分で自分を買い取るという決意は生半可ではない。

そしてたとえ玉光と五作じいさんの気持ちが通じあっていても、ラストで感動の再会とはいかない。12編の中でも随一の奥深さがあると思う。


【おかしな修学旅行】 白クレヨンの話

(この話が最初に発表されたのは1983年です)
………………………………………………
国鉄のひとから「修学旅行用自由乗車券」をもらったので、
小田原にあるモンシロチョウの学校の2クラスが富士山に修学旅行に行くことになった。
この2クラスは先生同士をはじめとしてお互いをライバル視していて仲が悪い。
国鉄の電車に乗れるというので皆はしゃいでいるけど、片方のクラスはもう一方のクラスに勝とうと新幹線に乗ってしまう。
当時、富士山の近くに停車駅はない。
先生は、わたしたちは人間ではなくチョウなんだから、富士山が近づいてきたら窓から飛び出ればいいんだ、と言う。
当然だが新幹線の窓は開かない。いろいろあるうちに静岡駅でも降り過ごしてしまう。
そのまま次の浜松駅で降ろしてもらうが、この無料券は普通列車にしか使えないので特急料金分は無賃乗車ということになる。
けれどチョウなので人間のお金をもっていない。浜松のウナギ養殖場で餌やりの仕事をして返すことになった。
ちゃんと普通列車で行ったほうのクラスは「お前らがバカやってるあいだにオレたちは修学旅行もしたし普段の勉強もすすんでるよ」と笑う。
一方で浜松のウナギ養殖場のクラスも「普通の勉強なんかより養殖場のほうがおもしろいよ」と相手のクラスを笑う。
けっきょくいつまで経っても意地を張って相手をバカにしつづけるチョウたちなのだった……。
………………………………………………
83年の発表なので国鉄です。
いや、うん、あの、こんなこというの何なんですが……
メルヘンなファンタジーなのか、リアルにシビアなのか、どっちだ。
・「国鉄はチョウに修学旅行用無料券くれる」けど、
・「チョウだから途中で飛び降りればいい」けど
・「新幹線だから途中で降りられない」けど
・「特急料金は払わなきゃいけない」けど
・「チョウだから人間のお金もってない」けど
・「チョウたちはウナギの養殖場で働いて返す」
……って、なんなんですか。なんなんですか。
毒っぽさはあまり感じないものの、虚実の境をどこに置くかの見極めが絶妙すぎて変な気分になる。

「ぼくらは人間じゃないんだ、駅なんか関係ないだろ」

なら最初から乗車券いらないだろ!というツッコミはあまりに野暮だろうか。

 

【ラッパふきのエンゼル】 黄色クレヨンの話

エンゼルは観光地の湖にある遊覧船の、その船首にいる。
船に危険が近づくときにラッパを吹くのがそもそもの仕事だが、観光地ではそんなことはない。
昔は本物の船で世界中の海を回った。お月さまとはその頃からずっと友達。
月は気分屋で、丸いときはやさしく大らかな紳士だけど、やせ細ってくると気むずかしくなって無理難題を言ってエンゼルを困らせもする。
エンゼルに他にも鳥たちなど仲良い友達がいるのが月には気に食わないし、鳥たちは空に浮かぶ大きな月を恐れている。
双方の誤解はいくら諭してもいっこうに解けず、エンゼルは板挟みの状態。
月も鳥たちも、エンゼルのラッパの美しい音色を聞きたがる。けれどエンゼルは、ラッパは危険が迫るときしか吹いてはいけないからと、いつも断っていた。
月は怪しむ、
(エンゼルは本当に友達かな。友達の頼みなら聞いてくれそうなものなのに。夜は俺となかよくしてるけど、昼間は鳥たちと仲良くしてるというし……)
あるとき、鳥たちは羽があるからという理由で自分たちの代表としてエンゼルを選んだ。
エンゼルは辞退するが、選挙で選ばれたら断れないと鳥たちは言う。夜、鳥たちは新しい代表となったエンゼルのもとに集まった。
ちょうどそこに月がやってきた。
そのとき月は真ん丸に光っていたけれど、鳥たちと仲良くしているエンゼルを観た瞬間、連れて行ってしまおうと決心する。
月は「ぼくには、きみがいつも必要なんだ」と、ぐんぐんと湖に近づく。エンゼルは「いかない」と断る。
月は「きみは、ぼくのたった一人の友達なんだ」と泣きながらどんどん降りてくる。
きみの姿が見えない、ラッパをふいてくれ、そうすればきみの居場所がわかるから、と
鳥たちは半狂乱になりながらも「吹いちゃいけない!」という。エンゼルを連れて行かれてはたまったものではない。
どんどん月は迫ってくる。このままではぶつかって湖がさけてしまう。今やみんな「ふいてくれ!」と懇願する。
エンゼルはラッパをふいた。月はエンゼルをみつける。
鳥たちは「逃げろ」とさけぶが、月はしっかりとエンゼルの手をにぎって空に戻っていく。
翌朝、人間たちは遊覧船が姿を消したことに大騒ぎするのだった。
………………………………………………

嫉 妬 !

気分屋で気難しいお月さまは、やさしくて仲良くしてくれるエンゼルくんにぞっこんだけど、彼は人気者なので他の奴らとよく一緒にいる。そういうところを見ると、どうしても自分だけのものにしたい!と思っている。
マジかよお月さま。いじましすぎる。

エンゼルにもお月さまにも人間的な性別は設定されていないけれど、いちおう言い添えておくと、前述のとおり一人称は月が「おれ」、エンゼルが「ぼく」です。


【野原のひっこし】 きみどりクレヨンの話

主人公は野原です。
いや野原さんという人物とか、擬人間化された野原ではなく、野原という土地そのものが主人公。行く先々でたいへんな目にあい、転々と移っていく野原とそこに住む草花や虫たちの話。
ある日、右と左の両隣にできた工場のせいで、草花や虫たちは大きな音と煙に苦しみだした。
みんなの抗議をうけて野原が話しに行くと、工場たちは
「自分は社会の役に立つものをつくっている。それで野原は何の役に立つ?何か価値があるのか?」と取り合ってくれない。
しかたなく野原はみんなを連れて引っ越すことに。
で、川べりに引っ越したらゴルフ場をつくるから立ち退けといわれ、
市立公園内なら安心だからといわれて越したら野外ホールをつくりたいからやっぱり移ってくれと云われ
もういっそ人のいないところがいいと山奥に移り、ようやく静かな生活を取り戻したとおもったらダム建設が決まる。
引っ越さず昔の場所にいればよかった、昔の場所に戻れないかと、残った仲間たちに手紙を出したけれど、どれも「宛先不明」で帰ってきてしまう。
もうみんな一緒に湖に沈もうかと落ち込んだが、最後に、新聞広告で引越し先を探してみることに。
すると全国の子供たちから、うちの庭の分だけでも、屋上の分だけでも、虫の一匹だけでもいいならと、トラックに積みきれないほどの手紙が届いた。
野原は子供たちの手紙を、暗くなるのも気付かずいつまでも読みつづけた……。
………………………………………………
福永先生なので自然賛美、また人間の開発に対しては批判的なわけですが、最後はイイカンジにまとまってるけど、これもけっこうズンとくる話です。

ゴルフ場では飛んでくるボールのせいで、花は頭を折られ、てんとう虫は潰されて死んでしまうし、市は「誠意と責任をもって草木を保全する」といいながら
殺虫剤をぷしゅーして「草木はともかく、昆虫はやっぱり、病気の原因になるし。隣のバラ園に入られても困るから」とかいうし。

引越のとき、市長さんが「自然保護が緊急の課題となっている昨今、野原さんを失ってしまうことは実に残念でならない」と挨拶をしたり、人間のすることなすことに冷笑的。
あんまり自然賛美一辺倒で人間批判がつづくとちょっと鼻白んでしまうことも多いけど、今作についてはひたすら野原さん(と草花と虫たち)可哀想だなぁと思ってしまうし、
子供からの手紙をいつまでも読んでる野原さんのことを想像すると泣けてきてしまう(野原さんがどうやって手紙を読むのかはわからないけど)

 

【ドングリのかくれんぼ】 茶色クレヨンの話

舞台は動物園。
いつもなんとなくみんなに軽んじられているドングリが、みんなに迷惑をかけているのに好かれているキツネにその理由を聞くと、
「呼ばれても隠れてればいい。探されるってことは必要とされてるってこと」と教えられる。
そうか今まで自分は手間のかからない優等生すぎたんだな、と納得したドングリは、次の集合のとき、呼ばれても出て行かずに隠れていることにした。
すると、いつもはみんな口にしないドングリの悪口が、出てくること出てくること。テープレコーダーに録音しておけば……!とドングリは歯噛みする。
そのあと茶色クラブという、動物園の茶色い動物たちの会合でも、ドングリは隠れていた。今度はレコーダーを持って。

会合の内容はロバの誕生日について。
皆がそれぞれプレゼントを渡すが、あんなドングリでもいないとプレゼントが減るんだからロバが可哀想、と誰かが言った。
ロバは笑いながら「要らないよ、あいついつも肩叩き券とおつかい券が一枚ずつだもん」という。
隠れながらドングリは震えていた。今年は金紙と銀紙の肩叩き券とおつかい券を二枚ずつ用意していたのだ。

そもそもどうしてドングリがこのクラブにいるんだよ、動物でもないのに、と彼らは笑っていた。
すぐ飛び出していってもよかったのだが、ドングリは録音を溜めてからみんなを驚かせてやろうと思ってじっとしていた。

「ドングリの気もちは、じいっとうずくまって、きき耳をたてているあいだに、だんだんどくどくしく、うらみぶかいものにしずんでいきました。
つぎの日も、つぎの日も、ドングリは、それがしゅみのようにテーブルの下でくらい目を光らせて、じぶんのわるくちを待ちかまえていました。
運よくわるくちを録音したときはうれしく、だれもなんともいってくれないときは、えもののとれないりょうしのようにがっかりするのでした。」

 
そしてある日、今こそ飛び出す時だとドングリが駆け出そうとしたとき、体がびくとも動かなかった。
ずっと暗いところにじっとしていたので体から根が生えてしまったのだ。
………………………………………………
やめてー。
もうゆるしてー。
もう苦みとつらみしかねーよこんな話。

あまりに破滅的な話だと思う。

ドングリに対して嫌なヤツで自業自得だと思う人もいるでしょう。たしかに怨みやすいタチで嫌なヤツだし自業自得ではあって、隠れてひとを試すようなことをしてはいけないと、怨むことを諌めていると捉えることはできる。

でもぼくは終始ドングリの視点で語られる物語に、全部ドングリが悪いとは言えない。少なくともドングリは初めは善意の持ち主だった。ただ善良すぎて疑う心がなかったがゆえにキツネの話を真に受けてしまい、そのキツネにもまんまと裏切られた。

その後怨みの心を自ら育ててしまったのはドングリの良くなかったところだが、踏みつけにされた者にそれでも正しくあれ、あらねばならないと説くのは酷というものではないか。

そんなことを考えると鬱々としてくる一篇です。

 

【花びらの旅】 もも色クレヨンの話

桜の花びらが、海が見たいと川の流れに身を任せて下りながら虫や鳥たちとふれあっていく。
とてもきれいで穏やかなおはなし。
………ついやす言葉は少ないですが、いいお話ですよ?
ちょっと周りのインパクトが強すぎるので箸休めな感じで、ね?

 

【水色の自転車】 水色クレヨンの話

海辺の民宿では貸し自転車もやっている。
一番人気は水色の自転車だ。主に14歳くらいの少女たちに人気で、なかでも「よしえさん」という女の子が水色の自転車はお気に入りだ。
ある日、いつもの時間によしえさんが借りに来ないので、水色の自転車はこちらから迎えにいってみることにした。よしえさんは近くの別荘に来ている。
浜辺を走っていると、海の中から呼ぶ声がした。カレイだ。カレイもよしえさんのことが好きで、会いに行きたいと思っていたのだ。
自転車は生臭くて嫌だなとおもいながらよしえさんの別荘まで走る。
カレイを紹介すると「カレイ、だーいすきよ」というよしえさん。カレイは照れる。
よしえさんは「ちょっと待ってて、逃げないでね」と別荘に戻り、鍋とフライパンを持ってきて「どっちがいい?」

「よく来てくれたわ、大歓迎よ。わたしまだ食事前なの」

「ぼくは、小エビをたべてきましたから、どうぞ、おかまいなく」

水色の自転車には、これからおきようとしている悲劇の意味がよくわかりました。

食べられるから逃げろと言ってもカレイはなかなか信じないが、よしえさんが友達とムニエルにするか煮付けにするか相談しながら戻ってきてはどうしようもない。
カレイは必死にサドルによじ登って早く早くと急かす。

水色の自転車、ゆるやかにペダルを回しました。全速力で逃げるというほどの気もちにもなれず、サドルの上にほとんどへたばっているカレイをいまいましく思う気もちも前と同じことでした。


よしえさんは戻ってみたらカレイがなくなっているのでふくれてしまう。
「急にどうしても帰るというので」「泣いてるみたいでしたよ」と水色の自転車がいうと、よしえさんは

「なんでなくひつようがあるの。」
と、少女は。まるい目でといかえしました。
「いつも水にぬれているものが。」

………………………………………………

ひと夏のなんとやら……なんて甘酸っぱくない。
無理解。愛する者からの圧倒的無理解。
自転車やカレイがしゃべって人間と仲良く会話するのは不思議でもなんでもないってファンタジーなのに、

カレイは人間にとっては食べ物でしかないってリアルさ加減はなんなんですか。
ブタ別荘が「どうせ餌としか思ってないんでしょ?」と問い質されて返答に窮する話なのに対し、
この話はあまりにも無邪気に「餌としか思っていない」ことを突きつけられて絶句する。
またそれを嫌々ながら助けてやる水色の自転車の心情たるや。
この小話の題にもなっているのに、自転車は実質的には自分のためには何もしていない。
カレイを連れて行って帰っただけ。ただの運び屋の仕事しかしていない。けれどとても重要な役割だ。
カレイを逃してやるときの自転車の複雑な心情が味わい深い。


いちご村】 赤クレヨンの話

クレヨン王国のゴールデン14世は、立派な王様だったけれど、ふざけすぎるという欠点があり、
みんなからは「うそつき国王」と呼ばれていた。
王様にしてみれば、何を言っても「おっしゃるとおりです」など5,6種類の返事しかしない大臣や家来たちにうんざりしていて、
なんとか驚かせて本当の素顔を見たいと思っていた。
あるとき、王様は突然「砂漠にイチゴ狩りに行く」と言い出す。
大臣たちはもう慣れたもので、うまく調子をあわせて、美味しそうに「砂漠のイチゴ」の話をする。
王様は、実際にイチゴ狩りに行けば嘘にはならないぞと、本当にラクダに乗って砂漠に出かけてしまう。
ずっと砂漠を進むと、今度は雪の世界が待っていた。それでも王様は進む。
雪原に雪だるまたちが遊んでいるのを見つけて話を聞いてみると、氷原を三日三晩すすんだところに、本当ににイチゴ狩りのできる場所があるらしい。
このまま旅をつづけられては堪らないと、お伴の家来たちはこっそりと隊列を離れる。
王様が独りになったことに気づいて心細くなったところに出ていって、もう帰りましょうと説得するつもりだった。
王様は家来たちがいなくなっていることに気づいてラクダを返したけれど、めちゃくちゃに進むうちに自分がどこにいるかもわからなくなってしまった。
きらきらとまたたく星空を仰いでいると、ひとつの山の向こうだけがまぶしく輝きはじめた。
王様はなにか危険があるのではないかと思いながらもその光に向かって進んでいった。
はたしてそこでは、空からきらきらと降ってくる金色の星の子供たちが氷原の上の畑から本当にイチゴを摘んでいるところだった。
星の子たちが空に帰っていった後、王様が畑に駆け寄ってみると、イチゴはほとんど摘みつくされていたけれど、たったひとつだけ残っていた。
けれど、摘もうとしても、摘めない。
「それは星の子がつくったイチゴだから、人間には取れない」
とイチゴの番をしている小馬がやってきて言う。自分はゴールデン王だが、摘めないならここで食べてもよいかと尋ねる。
小馬は、あんたがうそつき国王か、食べてもいいけどうそをつけなくなるよ、笑った。
それは願ったりとぱくりと食べると、王様の体は光り輝き、そのままシューっとお城まで飛んで戻ってしまった。
それ以来、特に王様が心を入れ替えたとか、特別な変化はない。
ただ、うそや冗談を言おうとすると、お腹からジーンとベルのような音が鳴り響くようになった。それが王様のお腹から鳴っているとは、王様の他にはわからないけども。

「星のやつは、まじめすぎる。ユーモアがわからん。わしは、人間がいちばんすきじゃ。」
そして、くやしげにつけくわえられるのでした。
「もしわしがふだんもうちょっとまじめであったら、星の子のイチゴ畑の話も、まるごと信用してもらえたのじゃが。
「信用しておりますとも、王さま。」
と、けらいたちは、目のおくでわらいながら、うなずきあうのでした。
………………………………………………
12編中、唯一「クレヨン王国」の名前が出てくる。ゴールデン14世という王さまが登場しますが、
『花ウサギ』のワニエモンの壺の伝説に登場したのが18世だったことを考えると、そうとう古い王さまの話です。
寓話のようであるし、そこに寓意を読み取らなくても充分におもしろい。

 

 

「ブタ別荘」「ラッパふきのエンゼル」「ドングリのかくれんぼ」「水色の自転車」の四篇は、
ドングリの話はまだ教訓を引き出しやすいかもしれないが、
五作じいさんと玉光の関係について答えは出せるのか。
エンゼルはどちらかをきっぱり選ぶべきだったのか。
はたしてカレイは身の程知らずだったということになるのだろうか。
……やはりすっきりいかなくていろいろな含みが残る。
「解説」では宮崎氏が12編それぞれに、ちょっと大仰なんじゃないかというくらいの言葉遣いで丁寧に解説をしているので、本編一読後にはクールダウンのつもりでどうぞ。


クレヨン王国」はやっぱり『十二か月』が一番人気だし、
その他でもシルバー王妃たちの活躍するものが人気だけど、こういう短編集から入るのも悪くないなと思った。
クレヨン王国という場所は最後にしか出てこないし、ほとんどはふつうの人間の子どもや動植物たちの話だけれど、
なんといっても、クレヨン王国とは、わたしたちの世界とまったく別の離れた所にあるものではなく、すぐそこ、
というかわたしたちの世界もふくんだ世界のことなのだし。

 

こっちは新装版。