積読ですよ!真塚さん

なにもわからない。

週刊クレヨン王国その7『クレヨン王国なみだ物語』

講談社青い鳥文庫20-8

クレヨン王国なみだ物語』

著:福永令三、絵:三木由記子

 

――そして、まだなみだのあつさもにがさも知らなかった七つの者たちが、この物語の主人公にえらばれたのでした。

 

 

【概要】

1985年 青い鳥文庫書き下ろし

 

 「週刊クレヨン王国」は、わたしがだらだら感想を話しつつ
 後日「あの巻の話ってどんなだっけ」を思い出すための備忘録です。
 まっさらな気持ちで読んで新鮮な感想を持ちたい方はここらでページを閉じてください。
 あとクレヨン王国を心から愛してる人も引き返してください。
 ご不快になられても当方責任を負えません。


 さて『クレヨン王国なみだ物語』はシリーズ8冊目。
いちご村」以来2冊めの短編集となります。
『なみだ物語』は巻の名前としてはあまり知名度は高くないと思いますが『パトロール隊長』と並んで名高い「ちとる」の話(「植木ばちのなみだ」)が収録されております。
わたしの一押しは「赤信号のなみだ」と、プロローグにあたる「お話の前のお話」。

 

 ちなみに通し番号ですが、前巻『七つの森』が20-6,今巻が20-8。
 間の20-7はどうしたかというと、これは『キミリーとみどりの小人』という別作品に振られております。福永作品で青い鳥文庫に収録されたものとしては唯一「クレヨン王国」シリーズではない作品です。クレヨン王国ではないので飛ばします。

 

お話の前のお話


 『いちご村』では盲腸で入院した少年が夜中クレヨンたちが話しているのを(夢の中で)聞くという体裁ですが、本作では「お日さまのなみだ」に選ばれたもの達のお話、ということになっています。

 お日さまのなみだに選ばれるとはどういうことか。

世界じゅうでいちばんはたらき者で、いちばんきまじめで、いちばんせきにん感の強い人は、だれでしょう。それは、お日さまです。

しかし何億年も黙々と仕事をしつづけて飽きてしまったので、明日はずっと寝てようと決意。
→ワニから凍えて死んでしまうと言われる
→ごめんね

 

何千万年か後
モズがカエルを狙っているのを見つけ、しばらく見ていようとしたら
→モズの味方をするな(日が暮れればモズは諦めて帰るのに)とカエルから文句を言われる
→すまんすまん

 

何百万年か後
急に仕事がつらくなって、カニみたいに横に動いてみたくなり、水平線で横に移動してみる
→谷間のカタバミから、昇ってくれないと日が当たらず咲かずに散ってしまうと言われる
→ほんと悪かった

 

しかたなく空のてっぺんまで昇り、カタバミは無事咲くことができましたが

 しかし、その晩、お日さまは、自分には、ほんの少しの気ばらしもゆるされないのだ、と、つくづく悲しくなりました。
 自分がしたいと思うことは、みんなしてはならないことで、したくないと思うことは、すべてやらねばならぬことなのです。
 この先、何億年もこんなくらしがつづくのです。どうしたらいいでしょう。どうしようもありません。
 お日さまは、生まれてはじめて、ポトポトなみだをこぼしました。

 

 ん、んん、んんん~~~???
 急にどういうつもりですか???

 これ小学生のときに読んでも「確かに太陽は毎日昇って暮れてを繰り返してるなぁ」程度のものですが、大人になってから読んだときの破壊力がひどすぎる。

 お日さまは泣いて、泣いて泣いて泣いて、すっきりして気が楽になります。
 明日からまた元気出してはたらこう、と思っていると、足元に宝石がちらばっているのに気づきます。
 それはお日さまのこぼした涙でした。

 

「ああ、なみだよ。なみだくんよ。おまえたちだけでも、わたしからはなれて自由な身の上になれたんだね。さあ、さあ、どこへでも好きなところへいってくれ。そうだ。おまえたちは、すべての色がこのうえなく美しいというクレヨン王国へいくといい。そこでまだなみだというものを知らない者たちに、なみだのねうちを教えてやってくれ。そうして一度もないたことのない気のどくのやつらの悲しみを、やわらげてやってくれ。」

 お日さまは涙の粒をかきあつめてクレヨン王国の方角に投げました。
 そのほとんどは海に落ち、クレヨン王国に届いたのは7個だけ。

そして、まだなみだのあつさもにがさも知らなかった七つの者たちが、この物語の主人公にえらばれたのでした。

 

>なみだのあつさもにがさも<

 

 ここまでがプロローグ6ページです。

 

>なみだのあつさもにがさも<
>そうして一度もないたことのない気のどくのやつらの悲しみを、やわらげてやってくれ<


 カッコ良すぎる。
 つらさMAXの前半から、このめちゃくちゃカッコいい締めはなんなんだ。

 しかもこのプロローグは、『なみだ』というモチーフの短編集を編むにあたっての涙の提供元という役割しかなく、この後お日さまはもう出てきません。短編それぞれもお日さまとは一切関係ありません。

 『いちご村』ではいちおう最後に少年が目を覚ますエピローグが描かれますが、『なみだ物語』にはそんなものはありません。書き下ろし短編集なのに…。

 

 

それでは、七つの涙の物語を見ていきましょう。

 


【第一話 カカシのなみだ】

 カラスとサギと子スズメが、富士山も新幹線も見たことない古いカカシを富士山の方に向けてやる。
 カカシは見えないところで轟音を上げていく新幹線を化け物のように思っていたけど、動けない身なので、動いていく電車への憧れを募らせる。カラスたちは知り合いの駅員にたのんで、新幹線ではないが、夜の貨物車に乗せてもらう。電車に乗れてカカシがほろり……。


 クレヨン王国にはじつに多くの鉄道が出てきます。
「12か月」にも出てくるし、前の短編集「いちご村」にも、新幹線の乗れるとはしゃぐモンシロチョウの子供達の話が収録されています。福永先生にとって鉄道、わけても新幹線は大きな印象を与えたものなのでしょう。とはいえ今回は鉄道については掘り下げません。

 クレヨン王国には戦争にまつわる設定やエピソードも数多く登場します。この話でもちょっとだけ出てきます。カカシを貨物車に乗せてくれるようはからってくれる駅員さん、長さんと呼ばれますが、この人は戦争で弾を受けて足が不自由、と説明されます。たった2行ですが、カカシが夢を叶えられて良かったねというだけだったはずの話が、この2行のために穏やかではなくなってきます。
 あれ、じゃあこれもしかして、カカシって隻脚で唖者の戦傷者の暗喩……?

「おれは足が不自由だが、こいつときたら、まるで歩けねえんだもんなあ。」
長(ちょう)さんは、しんみり言いました。

 いえ、福永先生はそんなことまで考えてないでしょうけど。たぶん。

 しかし長さんが経験したのはクレヨン王国世界の戦争ではなく、われわれ人間の戦争、太平洋戦争にほかなりません(たぶん)。クレヨン王国でわれわれ人間の世界の戦争について触れるのは、これが初めてだったのではないでしょうか(のちに「月のたまご」で擦り、「超特急24色ゆめ列車」ではダイレクトに書きますが)


 そういう意味においてはシリーズ中でも意義深い一編になっていると言えるでしょう


【第二話 算数の本のなみだ】

正太は先生に怒られた腹いせに算数の本に八つ当りし、耐えかねた算数の本は正太を困らせてやろうと家出。何処を探しても見つからず困っている正太のもとに、交番から拾ったとの連絡。正太は算数の本にひどいことをしたと反省して泣いた。

 

 ん?
 は?

 正太のごとき者が、教科書紛失したくらいで困るか?
 なくなっちゃぜー、まあそのうち出てくるだろうし、出てこなかったところで何? て
なもんでしょう。
 わたし自身、物を失くすのが大得意なのでそう思うのですが。

 それに、必死に探して見つけたとき謝罪の涙をながしたことで許されてるかのような空気が出てますが、それで正太の非道をチャラにしていいのか?とも思います。
 まあ教師も土下座謝罪を要求するようなヤツなので、正太のような跳ね返りを生み出してしまうのもむべなるかなという気もします。虐待の連鎖は誰かの忍耐でしか断ち切れないという悲しい話ですね。

 個人的には強引にエエ話にしたな、という印象を拭えません。
よりよい読解、解釈がありましたらご教示いただければ幸いです。

 


【第三話 カタツムリのなみだ】

強い男の子で生まれてから一度も泣いたことない、というのが自慢のカタツムリ、ノタムタくんが、アサガオの三姉妹に三股して即バレして逃げ出す。落ちぶれて死にそうになっているところに1人目の子、スージーだけはまだノタムタくんを心配してくれていると伝え聞き、スージーに謝りたいと願う……

 

 アサガオの三姉妹にそれぞれ求婚し、結婚の約束をするが、2人目のエミリーと3人目のサリーが鉢合わせ。

 エミリーからは

「ノタムタさん、あなたは、わたしにはつまになってくれとたのみ、妹には、おくさんになってほしいといいましたよね。いったい、つまとおくさんというのは、あなたの考えでは、どういうようにちがうのか、きかせていただきましょう。」

と問いただされ、頭をかいてごまかしていると「このうそつき! あんたなんか、二度と見たくない!」とフラれます。

 サリーからも
「おくびょう者、だいきらい! せめてムクドリと戦って死ねば、まだゆるせるのに。」
とフラれます。

 1人目のアサガオ、スージーからはまだフラれていません(鉢合わせの現場にいなかったので知らないだけ)でしたが、ケチョンケチョンにフラれた「いまわしい思い出をすべて消すため」ノタムタくんは逃げ出します。

 本当に美しいのはスージーだけだったなとわかりかけてきましたが、「――いや、いや。あってもしかたがない。いまならまだスージーの美しいすがたを心に抱いたまま旅することができる。――」と、何も言わずに旅に出ます。

 で、何も知らないうちにノタムタくんがいなくなってしまい、心配したスージーは赤トンボにノタムタくんを探すように頼みます。
赤トンボはノタムタくんの名を呼びながら探しますが、ノタムタくんは名乗り出られません。近くにマイマイカブリ(カタツムリを食べる昆虫)がいたからです。


 しかし、ここで出ていかなければ、永久にスージーに会えなくなるかもしれない。
「ここだ!ここだ!ここだ!」と声を上げます。

マイマイカブリなどは、真の敵ではない。ほんとうの敵は、自分の愛から逃げまわっていたひきょうでおくびょうな自分自身の心だったことが、いまわかったのです。

 ノタムタくんが逃げたのは自分の情けなさに直面したくなかったからでは……?

 赤トンボはスージーから預かったノタムタくんへのプレゼント、刺繍入りの雨傘を渡して、スージーは今でも君を心配してるし、もう秋だから彼女の命も長くないと伝えました。

 感動のシーンですが、結局ノタムタくんはマイマイカブリにかぶりつかれます。

「がんばれ、ノタムタくん、がんばれ! 死ぬな、きみが死んだら、ぼくはスージーさんになんていったらいいんだ」
 すると、ノタムタくんの目から、生まれてはじめての涙が、するすると流れ落ちました。自分のきたない心を彼女の前にさらけ出してわびることができたら、どんなにすがすがしいことだろう。そうすれば、もう死んでもいい。それだけがたったひとつのいまののぞみなのですが、マイマイカブリのために、それがかなえられないのです。


 するとそこへ雨が降ってきて水流となり、マイマイカブリは溺れまいとあごを外して逃げていきました。ついでにムクドリも襲ってきましたが、スージーの雨傘を開くと、驚いて逃げていきました。傘にはフクロウの刺繍があったのです。
 無事たすかったノタムタくんは川の流れに乗っていきました……

 

……。
んーーーー、
お前は泣いてる場合じゃないだろ。
まず泣く資格があるのかと問いたい。
要約しただけでもノタムタくんのクズ男っぷりがひどい。

 

 いえいえ、最初から彼女たちを騙すつもりで三股したわけではないんです。
ただ、前の子と会わないうちに他の子と会って、あっやっぱりこっちが真実の愛だなと毎回思い直してるだけで……いややっぱりダメかな。

 「自分のきたない心を彼女の前にさらけ出してわびることができたら、どんなにすがすがしいことだろう。そうすればもう死んでもいい」も、最後まで自分のことばっかりだなという感じです。

 

 これ、けっこう"文学"だなと思うんですよね。日本近代文学というか。
 こういう、男が情けなくなる話って、日本の"自然主義文学"にはまあまああって、そんなときに"ピュア"で"イノセント"な女性が献身的に支えてくれるパターン、多いですよね。もう会わない方がお互いのためとかいってそのまま女を捨てる話もありますけど。ちょっと男にだけ都合がいい話なんですよね。

 

 しかもこのノタムタくん、愛が軽薄なのもさることながら、無銭乗車でタクシーから放り出され、金がいらないという理由で乗ったのが火葬場行きの小型バスで、自慢の歌を披露しようと「大きな火事」という歌を歌ってしまうという大事故も起こしてるんですね。これからみんなは火葬場に行くのにね。
 ひとの神経を逆撫でする才能があるんでしょうね。

 

 がんばれ、ノタムタくん、がんばれ!

 

(ちなみに熱海の火葬場は姫の沢公園と十国峠の間にあるんですが、これがモデルでいいんでしょうか)

 


【第四話 植木ばちのなみだ】

幼いさとる君が名前を書き誤った植木鉢「ちとる」、植えられた木と親友になろうとも、いつかは自分が割られぬため彼の成長を妨げ、戦うしかない運命、自分の内で親友が枯れゆく悲しみ……だから老いた「ちとる」は自ら割れることを決意した…

 

 最初のアサガオは、自分を貴婦人のように思っていたので、名もない植木鉢のちとるを蔑み、もっと良い鉢なら放って置かれたりしないのにと嘆いて枯れていきました(本当はさとる君とお父さんの育て方が雑だったからなのですが)

 

 次の相棒、クリスマス用に買われてきたモミの木とは親友になった。
 若いモミの木は自身に満ちていたし、ちとるも「ぼくらは、ずっといっしょだね、ずっとなかよしだね」と興奮していた。モミの木もちとると親友かと問われて「もちろん、かれあってのぼく、ぼくあってのかれだから、ね。」と答えます。

 しかし、近くの水槽に飼われていた黒出目金が言います。

「わしのいうことをいやみと思ってはこまるよ。わしはおもえのためを思ってほんとうのことを言ってやるのだ。お前と銀紙のはちとは、親友どころか、じつは、かたきどうしなのだ。お前は一年後にはうんと大きくなるといった。が、そんな小さなはちの中で、どうして大きくなれるのだ。いまおまえは、はちが自分を守ってくれると思っているが、まもなくそのはちが自分をしばっていることに気がつくだろう。おまえは、そのはちの中では生きられないのだ。――前に、この池に、それは大きなまっかなりゅう金がきたことがあった。まるで女王さまみたいだった。わしらは、すみで小さくなっていたよ。だが、女王さまはたった三日で死んでしまった。池が小さすぎたから酸素がたりなかったんのだ。――おまえも同じ運命だよ。その銀色のはちを、わってしまわないかぎりは、な。」

 めっちゃセリフ長い。しかも不穏。

 実際クリスマスの後、モミの木は弱っていきながらも、内側から全力でちとるを蹴るようになりました。

ちとるは、悲しみでいっぱいになりながらも、やはり、モミの木と戦いました。わられてしまったら、自分の命がなくなるのですから。

そうしてモミの木は夏をまたずに枯れていきました。


 次の相棒はシャクナゲでした。
 さとる君の叔父さんが、山に自生しているのを掘ってきてくれたのです(いいのか?)。

 このシャクナゲはこれまでの園芸植物とちがって気性が荒く、ちとるを倒して割ろうとしてきました。もう最初から敵です。それに気づいたちとるは、割られる前に自分から、比較的安全な方向に倒れました。
 しかしシャクナゲは諦めません。通りかかったネコを呼び止め、自分の根の中にネズミのたまごがあるから、鉢を割ってそれを食べて欲しい、と頼みます。

「おまえは、このはちのやろうを、けってけってけりまくるんだ。はちがわ
れたら、たまごはおまえのものさ。」

 ネコは押したり叩いたりしてちとるを石のほうへ転がします。
 石とぶつかった衝撃でシャクナゲはちとるから抜けだしました。ちとるは割れはしなかったものの、ひびが入ってしまいました。


 次の相棒は、さとる君のお父さんが買ってきたハナカイドウ。
 ハナカイドウはとてもやさしいむすめで、成長しても、さわると痛いんでしょうと、ちとるのひびの方へは根を伸ばしてきませんでした。くだくだしい思い出話にも耳をかたむけてくれました。
 ちとるは、すっかり汚れていて、ひびも入っているし、これが最後の隣人になるだろう、できるだけ気持ち良く付き合いたいものだ、と思いました。これまで悲しい思いをしてきたから、ハナカイドウとはそうなりたくない、今の幸せを大事に思ってる、と語り、ハナカイドウはいつまでも一緒にいましょうと指切りげんまんをした。

 けれど、翌年にはもう他に根を伸ばすところがなくなった。
「ごめんなさい。」「ごめんなさい。」といいながら、ハナカイドウはちとるの痛いところを押し始めた。

――ああ、こうなることは、わかりきったことだった。――

 と、ちとるはくちびるをかみしめました。

 おれたちの友情がみにくくこわれないうちに、おれはなんとかしなければいけない。

どっちかがぎせいにならねばならんのなら、もちろん、年とったおれのほうが、なるべきなのだ。

 ちとるはシャクナゲのときのネコに、自分を台から突き落としてほしいと頼んだ。
 ネコは、おまえたちはうまくいっていたじゃないかと驚くが

「そうだ。いまが、最高だよ。だが、これからはそうじゃないんだ。だから、おれはいま、終わらせたいんだ。」

 ちとるの説明をきいてネコは涙ぐみながら承諾した。
 ネコがちとるを突き落としたとき、ハナカイドウはちとるをかばって自分が下になろうとし、あらそううちふたりは真横になってツツジの植え込みに落ちた。ハナカイドウはツツジに引っかかり、ちとるは下の地面に転がった。さいわい割れはしなかった。

 さとる君は物音にかけつけます。ツツジに引っかかっているハナカイドウの植え替えを終えると、ちとるを見たお父さんは、これだけひびが入っているともう使えない、捨てるしかないな、と言いました。
 けれど、ひびわれから液体が透明な液体がするすると流れるのを見たさとる君は、「でも、とっとく。」と、綺麗に洗って、またマジックペンで書き直しました。
 ちとる、と。


……。
 はああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
 三股バレ炎上の次がこれなの、ギアを急に上げすぎじゃねーか!?

 アサガオとの不穏なはじまりから、モミの木との友情であげてからの宿敵エンド、シャクナゲとの殺伐とした関係、そしてハナカイドウを思うゆえの自己犠牲……。

 戦いの関係とはいっても、植木鉢は動くことはできないのだから、ちとるはただ耐えるだけ。植物が大きくなったら邪魔になってしまうが、それどころか根を伸ばすまでは必要な存在としてある。そんなちとるが、そんなちとるだからこそ思い悩んで、自分を殺そうとしてしまう……なんて哀しい話なのでしょう。

 

 福永先生は、あくまで植木鉢の話としてこの物語を考えて書いたのでしょう、たぶん。
でも、なんだか「親と子」の物語でもあるような気もしてしまう。鉢と植物は親子ではなく相棒だけど、植物の伸びしろを制限する鉢のなかでは生き続けられない、子は親殺しをしなければ大きくなれないとでもいうような……それはあたかも、最後の「捨てるしかないな」という父親の提案を「でもとっとく」と却下するさとるくんのように……(いい話)

 

いやそもそもさとるくんとお父さんがちゃんと育てて植え替えをしてれば
こんなことにはならないんですけどね!



【第五話 人形のなみだ】

人形を拾ったが高飛車で手を焼く。持ち主に返すことになるが、別れるとなるとやっぱりちょっと寂しくてほろり。

 

 大みそかの夜、岩戸山のキツネたちは雲舟に乗り、雲の上から海に糸をたらして夜釣りをする。
 子ギツネのケートが初めての夜釣りをしていたら、いつのまにか舟が人間の町の上に流されていて、フランス人形が釣れてしまった。

 そのまま持って帰ったけど、このスーちゃんという人形がたいへんな怒り屋だった。洗ってやったら水が冷たい、草を編んだ服を着せたら洋服が良い、むかごやヤマゴボウをご飯にあげようとしたらベーコンやウニが食べたいと言う。しかも、「アーン、アーン」と泣き声はあげるが、涙は一滴も流しておらず、声だけの鳴き真似で相手をおどしているだけ。

 持ち主のチーちゃんに返してと言う(これは正論)ので、スーちゃんの言う番号に電話をかけて、持ち主に返すことにした。

 人間の姿になってチーちゃんに会うと、チーちゃんは「捨てるに捨てられず物置に放ってあったけど、大掃除で決意して捨てた」のだという。けれどやはり、捨ててからほっとしたような、取り返しがつかないような変な気持ちになっていた、古い友達を捨てるなんて良くない、これからは可愛がる、と。
 ケートはスーちゃんにお別れをいうと、思わずぽろぽろと涙をこぼしてしまった。
 そのときスーちゃんの目からも、初めて本物の涙が流れたのだった。
 チーちゃんも泣きながら「こんないい大みそかって、ないと思うわ。あたし。」と言った。

 

……

 フツーにエエ話やん。
 途中までトイ・ストーリーみたいに「もう新しい人形いますけど?」とか「いやさすがにもう人形遊びの年齢じゃないんで」みたいな話を覚悟してましたけど、チーちゃんは捨てたことを後悔しててこれからは可愛がるって話で終わって、よかったですね。本当に良かったですね。
「まだなみだのあつさもにがさも知らなかった」「一度もないたことのない気のどくのやつら」が涙を知るという、なみだ物語のコンセプトにもうまくハマっていて。

 

 

【第六話 赤信号のなみだ】

信号機おじさんが小学生の女の子に恋をして破滅して泣く

 

 長年のはたらきで尊敬される赤信号"カピタン"ファイヤー(カピタンは尊称)は、いつもこの交差点を利用する小学四年生の女の子、さゆりちゃんが好きでした。彼女のことなら誕生日や星座も、血液型も、食べ物の好き嫌いも、家だって知っています。同級生の男子に話しかけるところを目撃してしまうと、胸がキューンとしてしまいます。

 

 彼は洋品店のショーウィンドウに並んだ服をさゆりちゃんに着せたい、贈ろうと思い、知り合いのカラスに相談しますが、「金なら貸せるが、やめとけ」と諭される。
 さゆりちゃんがお前を見るのは、学校が信号機をしっかり確認しろと教えているから、 お前はそのサインに過ぎないのだから、と。こちらが思っていてもかい、とファイヤーは食い下がりますが、カラスは絶対に通じないと断言します。
 彼は恥ずかしさをかみ殺して「このことは誰にも言わないでくれ」とカラス
に言いました。

 

 自分は信号機にすぎないが、ならばせめて自分にできることをしよう、彼女が渡るときは待たせず青にしてやろうとファイヤーは考えました。もちろんそれは信号機の決まりを破ることです。他の信号機が危ないだろうと叫びましたが、「せいぜい一日二回
のわがままなのだ」とカピタンの威厳でもって黙らせました。自分にはこれくらいしかできないのだから、これだけは絶対にやる、と決心していたのです。

 

 もちろん、一日に二回も狂う信号機が放っておかれるはずはありません。苦情をうけた警官がたびたび調べにくるので、信号機たちは危険を感じていました。

 春の交通安全週間、交差点には警官が立ちます。その日もファイヤーは、さゆりちゃんが来ると、自分が光り始めたばかりだったのに青に出ろと言いました。ファイヤーの下の青はすぐ光りましたが、交差点の他の信号灯はためらいました。ファイヤーにしたがえば、警官の目の前で誤作動することになり、間違いなく故障品として新品と取り替えられてしまうからです。
 結果、ファイヤーのいる信号機だけが「ああ、くるった。これがだめなのね。」と言われました。

 

 自らの滅びの運命を悟り、最後の別れを言うためにファイヤーは何度も赤く点滅します。そこにするすると涙が流れるのをみたさゆりちゃんは、最近自分がわたろうとするたびに青にかわっていたことを思い出して、ファイヤーに向かってお辞儀をしました。

「なんで、おじぎをしたの?」
と、一年生がかわいらしくききました。
「ながいあいだ、さゆりを守ってくれてありがとうっていったつもり。」
「じゃあ、ぼくも、そうする。」
一年生も、ぺこんとおじぎをしました。
 いちばん高い車信号灯の上では、カラスが一羽、こおったようになって、この光景を見つめていました。

 

……
 カピタンファイヤーの顛末、哀しいは哀しいんですけど、ファイヤーの視点からいえば破滅の悲劇なんですけど、大人になってしまうとどうも、ファイヤーの視点に無邪気に思いを乗せられないというか……
 もう圧倒的に「やば」「きも」「こわ」なんですよね……"おじさん"が一方的に見知ってる小四女子に恋心を寄せてて、彼女のことを知り尽くしてて、プレゼント贈ろうとしたり、身勝手な思いやりで仕事めちゃめちゃにして破滅する話なので……

 一部界隈で「ロリコン信号機」とも呼ばれるのも致し方なし。

 彼女のためと影ながら不正をして、それが露見しそうになってても、もう目の前でバレてしまうという状態ですら突き進んでしまうような決心は、「くるった」覚悟としか言えないでしょう。

 

 ところで最後、すべての顛末を見届けたカラスが「こおったようになって」見つめていたのはなぜなんでしょうか。

 旧友が破滅へ突き進んだからでしょうか。

 それとも、絶対に無理だと断言したファイヤーの想いが、身の破滅をもってさゆりちゃんに伝わったのを見たからでしょうか。

 あるいは、破滅をもってしても、ファイヤーの気持ちは"正しくは"伝わらなかったのを確認してしまったからでしょうか?(ファイヤーの行いはさゆりちゃんを守ってなどいないのですから)

 

 まあとはいえ、カピタンファイヤーも「無理でしょ、常識的に考えて」を受け入れた上で壊れる方向に突き進んでるので、それなりに理解しやすい話ではあります。
 わたしは「水色の自転車」(『いちご村』所収)くらいすっぱり切れ味鋭いディスコミュニケーションのほうが好きですね。
 

 どうでもいいけど、80年代に青い鳥文庫読んでたインテリ小学生たちは「カピタン」がキャプテンのことだってピンときてたんでしょうか?

 


【第七話 ヤマザクラのなみだ】

愛し合う巨樹たちは、切り倒され材木にされても互いを想いつづけ、隣り合う建物となれて涙を流す……


 人跡未踏の十字峡では、風の神の養子・大ブナと、水の神の養女・ヤマザクラの、ふたつの巨木の結婚式が行われた。参列したクマたちはごちそうのマス(魚)をたくさん持ち寄った。

 下流でマスの頭を見つけた青葉村の猟師はクマがいると直感、仲間を連れて川の奥深くへ乗り込み、見事クマを仕留めて帰還。村の人々はフィーバー。初めは観光地にしようとし、それが無理でも材木を出荷するために大きな道路を通していった。

 山が猛烈ないきおいで伐採されていくので、風の神と水の神は怒り、三日三晩荒れ狂った。さすがにこれで懲りたろうと、風の神と水の神は、世界一周の旅に出かけるが、周囲の村々もふくめて大きな被害が出たために材木の価格が高騰、青葉村はさらに伐採をすすめた。

 村会議員・村田浅次郎も「この機会に、旅館でもやろう。あのブナだけをつかったブナ荘を建てる」と思いつく。
 ブナは「森から消えるが死にはしない。家に変わって生きつづける。生きていればきっとまた会える」とヤマザクラを慰め、そして切り倒された。

 ブナ荘の人気が高くなると、ライバル議員・光本直松は面白くない。すると息子の嫁が「うちはヤマザクラだけでつくった料亭、サクラ亭を開こう」と提案。
 ヤマザクラは「今のままでは永久にブナとは会えない。それならブナ荘、サクラ亭と並び称されるようになりたい」と切り倒されるのを受け入れる。

 サクラ亭開業のお祝いの日、大雨によって川の水かさは増し、十字峡近くに建てられたサクラ亭はその形のままそっくり川に流され、ようやく岸に着いたのはブナ荘まで50メートルほどの所。水の神のはからいだった。
 それ以後も、サクラ亭がブナ荘にじりじり近づいているという声はあったが、あまり相手にはされなかった。

 時は流れて、村田浅次郎と光本直松は相変わらず対立していたが、ブナ荘とサクラ亭はもう息子達の代になっており、東京の大学へ通っているブナ荘の跡取り息子(浅次郎から見ると孫)と同じ東京の大学のサクラ亭の娘(直松の孫)は互いに好きあっていた。 
 なんだかんだあって浅次郎と直松が死ぬと、息子たちはこれからお隣同士仲良くして、跡取り息子たちの結婚も認めよう、と話がまとまる。

 若主人の結婚式、ブナ荘は式場、サクラ亭は披露宴の会場になっていた。
「ブナ荘とサクラ亭の結婚式会場は、こちらですな」と顔がまっくろの大男たちがぞろぞろとやってきた。大男が「これより、ブナ荘と、サクラ亭の結婚式をおこないます。」と大声で言うと、男たちはクマの姿になって歌い出した。ブナとサクラの結婚式に来ていた、あのクマたちだ。
 さらに「新郎、新婦の入場!」と大グマが叫ぶと、会場一同はドーンと衝撃を感じた。
 気づくとクマたちはいなくなっており、ブナ荘の窓の外、すぐ触れるほど近くにサクラ亭が立っていた。サクラ亭は軒や柱から、きれいな水滴をフツフツと噴き出していた。「あ、ないている!家がないている!」と誰かが叫んだ。
 どこか遠いところで「サクラ亭ばんざーい、ブナ荘ばんざーい。」という声が海鳴りのように響いていた。

 

……
これはめちゃめちゃクレヨン王国っぽいですね。
「家が泣いている!」は、ちょっとホラーちっくですが。

 人間の開発に襲われる自然もさることながら、あまりにもスピーディーに運ぶ、あまりにも迂遠な展開。花ウサギやパトロール隊長の頃の、初期クレヨン王国の感じ。

 そもそも人間たちに目をつけられる原因が、ブナとヤマザクラの結婚式(のごちそう)って容赦のなさが悲しみを増しています。

 

 それにしてもクマを仕留めてフィーバーしてるのが時代を感じさせますが、山村でクマ獲ってフィーバーしてたのはいつ頃までなんでしょうか。いまなら熊森に抗議されてしまうでしょうこんなの。

 


解説 涙は存在の美しいメッセージ、涙復権の物語

おまけです。
解説は電子書籍版には掲載されていないので、読みたいひとは紙書籍で読んでください。といってもわざわざ読むほどの価値があるとは思えませんが。

 

今巻の解説は児童文学評論家の宮崎芳彦氏。


「……最近の若い人はあまり泣かないと聞くし、そういえば自分も最近は泣いてない。しかし今年は日航機墜落、三光汽船倒産、豊田商事、そのほか交通戦争による犠牲者など、ぼくらが泣かなくなった分、少数の人たちにより多くの涙が集中しているのではないか……」(要約)
といった枕から各話解説に入っていきます。

 

なにこれ?

 

現在は、一九四五年八月からつづく日本が別な方向にむかうときの、まがり角だと思う。その端的なあかしに、アメリカに代表される先進国から第三世界の国々にいたるまでのはばで、もうけすぎとその体質を非難・攻撃されていることがある。日本は平和で金持ちなのだ。それは穏和な国民性とはたらきすぎの成果であって、地球の規模で見わたしてきわめてまれで、めぐまれたケースなのだ。ぼくたちの涙が少なくなったとすれば、やはり、この事実と別ではないだろう。

 

誰とおはなししてるの?

 

 宮崎先生、他の巻の解説でもそうですけど、どうにも自分の書きたいことが先走ってて、誰を相手に何を言ってるのか、本当にわかってやってるのか?とやや疑問になります。
 実際85年当時は貿易摩擦の問題などもあったでしょうし、子供相手に政治や経済や時事の話をするなとも言いませんが、それこの本の解説6ページのうち2ページ半つかってでも此処で言わなきゃダメなことでしょうか?

 

 さて各話解説ですが、それぞれの涙の意味づけと分類を行っていきます。

 要約すると

「カカシのなみだ」…感謝の涙
「算数の本のなみだ」…算数の本は悔し涙、正太は反省・謝罪の涙
「カタツムリのなみだ」…たった一つの願いが叶えられない絶望の涙
「植木ばちのなみだ」…一口では言い表せない悲痛でもあり甘美でもある涙
「人形のなみだ」…三者三様のうれし涙。
「赤信号のなみだ」…恋がなかうことは金輪際ありえない、それでも命を捨てて愛する自分を表現する、痛切ないまわの涙
ヤマザクラのなみだ」…この涙を分析することは手に余る。

 となります。

 

 もうこれが本当に無粋。
 解説に読みの見通しや補助線をつける役目があるのは、わかりますけど……わかりますけども……

 そして、さまざまな涙があるが「泣くこと涙をながすことは、生きていること、ぼくらがやわらかな人間という生きものであることのあかし、たがいをいま一度つなぐための有力な回路である。自分を回復し、ふたたび自他をむすびあわせるための美しい、目にあふれるメッセージである」、福永先生はそれを物語化しようとしたのだろうと結ぶ。

 

初めからそういう話をしろ!

 

 

【総評】
やはり福永先生は短編も上手いなと思います。
「カカシ」「人形」「ヤマザクラ」はいかにも童話といった感じの優しい話ですが、「植木ばちのなみだ」「赤信号のなみだ」のような複雑な葛藤の物語もものしてしまいます。

 

 ちょっと気になるのは、「カタツムリのなみだ」のノタムタくんについて日本近代文学っぽいといいましたが、ちとる、カピタンファイヤーにも同じような感触があるんですよね。………大丈夫かな、ちとる人気なのに、こんなこと言ってクレヨン王国好きな人に刺されたりしないだろうか。


 三股のノタムタくんと、ロリコンのカピタンファイヤーはともかく、ちとるは全然違うだろ……いやいや。モミの木とのエピソードを読んだり、ただの破滅ではなく自己犠牲しようとしてるからずっと良く見えてるけど、ようは「若い頃辛いことたくさんあった老いぼれの俺だけど、ハナカイドウ嬢から優しくしてもらって、彼女のために死のうとしたけどまだまだ現役でいけるようです」って話ですよこれ。
 なんだかんだで、男性のプライドを上手い具合に慰撫してくれるようにはなっているのではないでしょうか。

 この、「男の独り善がりな自己陶酔」三編、たぶんクレヨン王国じゃなかったら相当に臭みの強い物語になっていただろうと思います。もちろんこういう話に臭みを感じるのは、わたしが1985年の小学生ではなく、2022年の成人読者であることも、無関係ではないと思いはしますけれども。

 

 これは「週刊クレヨン王国」が表層的なモチーフを面白がっていく浅薄な方針だから言うのではなく、先入観なく読んでいくとそう読めてくる、という部分だと思いますし、『パトロール隊長』の厳しい環境にノブオを適応させてるとことか、『七つの森』における父と子の関係の描き方とか、クレヨン王国にはちょいちょいそういう「男らしさ」が描かれてきたような気もします。

 それでクレヨン王国の面白さが損なわれるわけではないし、そういうところまで含めて面白いと思ってるので、全然かまわないんですけどね。